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バーリントン (ノースカロライナ州) : ウィキペディア日本語版
バーリントン (ノースカロライナ州)

バーリントン()は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州の中央部アラマンス郡の都市である。2010年国勢調査での人口は49,963 人であり、州内では第17位だった。アラマンス郡全郡で構成されるバーリントン大都市圏の主要都市であり、市領域の大半がアラマンス郡に入っている。さらにピードモント・トライアドと呼ばれるグリーンズボロウィンストン・セーラムハイポイント広域都市圏に属している。大都市圏人口は2010年時点で約15万人超だった。
== 歴史 ==
アラマンス郡は1849年にオレンジ郡が分割されて設立された。初期の開拓者にはクエーカー教徒の集団がおり、その多くがスノーキャンプ地域で活動していた。他にドイツ系農民やスコットランド系アイルランド人の移民がいた。
1850年代にノースカロライナ鉄道を建設し、その線路を修繕、維持するために土地を確保する必要性があったことが、バーリントンの町を作る契機になった。鉄道会社は現在のグラハム市のやや西にある土地を選定した。1856年1月29日、ノースカロライナ鉄道の線路の最後の締め付け部に犬釘を打ち込み、鉄道によってゴールズボロ市シャーロット市が結ばれた。翌日、新線を最初の機関車が通過した。アラマンス郡に蒸気機関車が到着したとき、地元では「世界の8番目の不思議」と言われた。
鉄道はこの歴史的な開通から間もなく、修繕工場の必要性が現実のものになった。新線に沿ったアラマンス郡の位置づけからその工場の場所として論理的な選定場所になった。工場をどこに造るか幾らか議論が行われた後で、進歩的なアラマンス郡の製造業経営者ベンジャミン・トロリンジャー将軍が、その問題に決着を与える提案をした。トロリンジャー将軍はグラハムのすぐ北西にある土地を所有しており、それに隣接する土地を所有する著名市民を説得して、合同で鉄道会社に土地を売ろうというものだった。1859年までに、工場の建設が始まっていた。一夜とでも見える間に町が生まれた。教会、銀行、ホテル、レストランが出現した。当初の町は「カンパニーショップス」と呼ばれ、鉄道の本社の位置にも選ばれた。工場が完成した時までに、村は27の建物があるまでに成長していた。白人37人、黒人奴隷20人と自由黒人2人がその工場と関係部署に雇用された。町の区画販売が間もなく始まったが、その売れ行きは南北戦争が終わるまで緩りとしたものだった。1864年までにカンパニーショップの人口は約300人を数えた。
この工場は25年間操業を続けた後、地域の鉄道施設の大半と共に閉鎖された。1886年、ノースカロライナ鉄道会社はその操作基盤をノースカロライナ州スペンサーに移した。カンパニーショップの鉄道事務所と工場が閉鎖された。鉄道の工場が操業を止めてみるとカンパニーショップの住民は名称を変更する必要性を感じた。カンパニーショップスは1893年2月14日にバーリントンとして生まれ変わった。バーリントン市が法人化され、州議会から憲章が発行された。
20世紀への変わり目頃、工業時代が始まり、アラマンス郡は国内の工業化の進展に大きな貢献を果たした。トロリンジャー将軍とE・M・ホルトがホー川とグレートアラマンス・クリーク沿いに小さな繊維工場を設立した。1908年、E・M・ホルトが南部で最初の綿製品工場を建設した。アラマンス郡ではただ1つの工場から30の綿製品工場と10ないし15の製糸工場を操業するまでに成長し、15,000人を雇用するようになった。E・M・ホルトの初期繊維事業はバーリントン・インダストリーズとして世界中に知られるようになり、現在は近くのグリーンズボロに本社を置いている。この時代を通じて、バーリントンは学校、教会、新聞社、電報局、電話線、道路、路面電車のある繁栄する活発な小都市となっていた。それら全てが当時の「現代的進歩」の最新性を保っていた。
繊維産業は1970年代に入るまで地元経済の中心であり続けたが、バーリントン市民は1つの産業のみでは生き残れないことを知っていた。第二次世界大戦に関わったことで、土地の経済に重要な変化をもたらした。1942年、連邦政府が試験用航空機製造のためにフェアチャイルド・エアクラフト・コーポレーション用土地22エーカー (8.9 ha) を購入し貸与した。そこで2年間製造が行われた後、陸軍のタンク再建計画のためにファイアストン・タイヤ会社に土地が貸与された。終戦と共に、連邦政府はその土地を放置せず、政府との契約事業のために利用を続けることにした。この判断によってウェスタン・エレクトリックが町に移って来て、国内から新しい雇用主も連れてきた。その契約から冷戦時代に出現した防衛産業の製造と試験に参加することになった。しかし、それから40年後の1991年、ウェスタン・エレクトリック(この時はルーセント・テクノロジー)が閉鎖され、バーリントンの歴史の1つの時代が終わった。
バーリントンはこの1世紀半にわたる経済の変化を経て、成長し、適応し、繁栄してきた。当初はカンパニーショップスの商業中心であり、中心街は現在も金融、政府、拡張された図書館、小型店舗、食堂と修復された劇場がある町の中心として機能している。中心街は主要な雇用中心としての位置づけにも戻って来ており、世界最大級の生物医学試験会社であるラボラトリー・コーポレーション・オブ・アメリカ(ラブコープ)があり、バーリントン市とアラマンス郡では最大の雇用主となっている。
バーリントン市にあるアメリカ合衆国国家歴史登録財としては、次のものがある。アラマンス・ホテル、アレン家屋、アトランティック信託銀行社ビル、ビバリーヒルズ歴史地区、バーリントン中心街歴史地区、イーストデイビス通り歴史地区、エファード・ビル、第一バプテスト教会、第一クリスチャン・チャーチ・オブ・バーリントン、ポリー・フォーグルマン家屋、ホルト・フロスト家屋、ホーナー家屋群、レイクサイドミルズ歴史地区、マックレイ学校、メナジェリー・カルーセル、ムーア・ホルト・ホワイトハウス、サウスブロード・イースト5番通り歴史地区、サザン鉄道旅客駅、セントアサナシアス・エピスコパル教会と教区民会館とホリー・コンフォーター教会、スタッグ家屋、サニーサイド、アメリカ合衆国バーリントン郵便局、ウェストデイビス通り・ファウンテンプレース歴史地区、、ウィンザー・コットンミルズ事務所である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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